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止まっているつもりで来たのに、絶えずその船は動いている

船に住む、というのは一体どんな気持ちになるのだろう。
ただし、その船は動かない。

 

 

古い家具とレコードが並ぶリビングがあるその船は、ある日突然、彼の前に用意されたものだ。
そこで、彼は特に何もせずに日々を過ごしている。
既にそこにあった本を読み、レコードをかけ、時折遊びに来る女の子のためにクレープを作り、郵便配達夫が来るのを見計らって多めに珈琲を淹れておく。
彼が自分に課している仕事は、「河岸で日を忘れてぼんやりする」だ。

 

 

彼は、今休んでいる。何もしていない。
それは、たぶん、だいたいの人が一度は憧れるものだけれど、実際やるとなると勇気がいることじゃないか。
何もしていないなんて、別に街を歩いて見知らぬ人から突然怒られるなんてことはないはずなのに。

 

 

詳しくは語られないが、彼は少し社会のスピードについていくことに疲れてここにいる。
だが、気持ちを共有できる友人とファックスでやりとりしている。
携帯とは違う。時差が生じる方法で。それは、今の生活に必要なことのように感じる。

 

 

彼のことを、あるいは負け組なんて言葉でくくってしまうこともできるのかもしれない。
だが、彼に船を貸してくれた老人は、自身の死期をさとりながら、孤独に死んでいくことを負け組かもしれないが

 

 

ひとりぼっちでいるからじゃない、ひとりぼっちの「ような気がしている」からだ
と言う。

 

 

ひとりだひとりだと思いがちだけれど、本当はそんなことはない。
何もしないでのんびりすることは、けして悪いことじゃないはずなのだ。

 

 

 

 

堀江敏幸 「河岸忘日抄」
(2005、新潮社)