
寄り添って暮らしてくれる物言わぬ彼ら
引っ越してきてから、グラスを二つ割り、小皿を一つ割った。
おっちょこちょいなので、お皿は割っても惜しくないものを、とついつい思ってしまう。
それでも、作家さんの器が並んでいるギャラリーにいくと、特別な器があってもいいかと憧れる。
それだけで、食事が楽しくなるのなら。だって、毎日人は食べる。
本の中に、お茶椀だけは、家族で別々のものを使っていた、という話があった。
私の実家は、お茶椀と汁椀とお箸と箸置き。それに、グラスと湯のみも。
思いだすと、意外と数が多い。他のおうちではどうなんだろう。
割れたり欠けたりなど、何かしら理由がないと変えないので、汁椀も箸も、子供の頃から変わらずに小ぶりなものを使っている。
なので、今では趣味も変わっているので、昔はこん感じが好きだったのかなぁと思ったりする。
その汁椀も箸も紅色で、和風の兎が描かれている。
お茶椀だけは別で、割れてもいないのに小さいのに変えたいと言いだした記憶がある。
体重を気にしだした頃、というよりは、こんなにご飯を食べなくてもいいのではないかと気づいた頃だろうか。
食べ盛りの頃は大きかったお茶椀も、母と同じ大きさに落ち着いた。
私だけではない。
弟のお茶椀は大きくなっていったくせに、何度もお代わりに立っていた。
父と母のお茶椀は、知らない間に小さくなっていった。
特に、特別な器ではなくても、思いだすことは多い。
それだけ身近なもの。だからこそ、一緒に暮らしていくものと呼べる。
一人暮らしの今は、お茶椀なんてなくて、何にでも使える小鉢がお茶椀になったりおかずをいれたり、グラノーラを入れたりだ。
本当は、器に憧れている。最初の一つは、やはりお茶椀だろうか。
中川ちえ 「器と暮らす」
(2005、アノニマ・スタジオ)