もうあの黒い楽器が森にしか見えなくなってくる
大人になってから、ピアノに憧れている。
クラシックに興味を持ち始め、オーケストラを聴くようになって、たくさんの楽器たちで作りだす楽曲を、ピアノだけが単独で表現できるんだと気づいた時、素直に、特別だ、と思った。
楽器というのはどれも美しいと思うが、屋根をあげたピアノ姿は勇壮でありながら華奢にも見えて美しい。
そして、あの黒鍵と白鍵のコントラストだ。誰が考えだしたのだろうかと思う。
なにより、あの鍵盤の重さがたまらない。
同じ鍵盤楽器でも、キーボードにはない重さだ。
ほんの近くでピアノを弾いてもらった時、音が空気の振動なのだと、自分の体の中の空気が震えて音になって聞こえてくるような感じは、衝撃だった。
さて、そんなピアノの調律に魅せられた青年が主人公だ。
彼は、ピアノのことを森と呼ぶ。森で生まれ育った彼には、ピアノは故郷の森だ。
弦をたたくハンマーのことをコブシの花の蕾のようだと言い、ピアノを美しいと良い、ピアノに出会ったおかげで美しいものに気付けるようになったという。
ミルク紅茶のあの色は美しいものだったのだと、ほんの日常に転がっているものが美しかったのだと気づく。
どちらかというと個性のない、無色の青年だと言える。
真面目に調律の仕事に励み、落ち込み、それでも先輩たちから吸収しようとする意思は強くひるまず、ただただ、ピアノに真正面から向き合っていく。
調律という仕事が詳しく描かれているのも魅力的だ。
調律師がどんな気持ちで仕事をしているのか、いいい仕事とはなんだろうとも考える。
最後に、本のタイトルへと繋がる一説が、またあたたかくて好きだ。
寒い地の話だが、なぜだがいつもあたたかかった。
宮下奈都 「羊と鋼の森」
(2018、文春文庫)