やまびこの答えを聞きに行く
山ガールの彼女が、同じ趣味の彼とゴールインしたのが私的には記憶に新しい。
つい先日、なぜ彼らはあんなに苦しそうに走るのだろうと書いたが、なぜ命を危険にさらしながら人は山を登るのだろう。
けれど、読み終わって、山を登りたくなった。
ヨガに通っているのだが、インストラクターのお姉さんが言うのは、今ここにいる自分に集中してください、という教えだ。
ヨガマットをおりたら人には役割がついてまわるものだけれど、ヨガマットの上にいる間はその役割を肩からおろして、自分の体の隅々にまで目を向けてあげること、と。
ポーズを取り続けていると、頭の中が空っぽになっていくのが分かる。
頭に浮かんでくる未来への不安だったり過去の後悔は受け流して、今、ここにいる自分に集中すること。それが大事という。
山に上ることは、あるいは少し、それに近いところがあるのかもしれない。
主人公は、ある日同僚に誘われて山に登ったことを契機に、一人で山を登り始める。
それ以来、彼女は何か乗り越えたいものがある度に、山に向かっている。
もちろん山登りにおいては、人智を超えた雄大な自然が大きな魅力になってはいるだろう。
主人公も、何度も何度も自然の美しさに心惹かれている。
けれど、過酷な試練を与えるのもまた自然だ。
自然の驚異にさらされながら、それでも人は一歩一歩、ただただ歩いて行く。
遥かな頂きを目指して、一歩一歩、自分に向かって深く沈みこんでいく。きっとそうなのだ。
近所を長めに散歩してまわるだけで、意外と頭は真っ白になるのだから。
そうやって、自分で自分に向かって話しかけることは、案外、日常生活では確保できない時間なのだ。
なにかしら、たぶん人は自分の外側ばかり考えている。
例えば家族のご飯や、仕事の段取りや、自分のことといったって、明日は何着ていこうとか、そんなことばかりじゃないだろうか。
とてもとても悲しいことがあったとしても、人はどうしても生活に追われて、悲しみにくれる自分の声にちゃんと耳を貸し思い切り悲しんであげる時間を作るのは後回しになってしまいがちだ。
それが、山を登るという時間を自分にあてがってやる。
自然と、自分と、対話しながら山を登る。
主人公である彼女の話を聞きながら、たぶん私も、そんな時間が欲しいのだ、だから山に登ってみたいと思ったのだ。
北村薫 「八月の六日間」
(2016、角川文庫)