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七年前の大震災に寄せて③

七年前、三鷹から家に帰ると、テレビでは被災地の映像が流れ、信じられない思いで見ていた。
怖くて仕方がなかったのに、テレビの前から離れることができなかった。

 

父の仕事場は車で通える範囲なので家にいたが、その頃大学生だった弟の姿はなかった。
ちょうど、サークル仲間とロードバイクのツーリングで西日本を回っていたのだ。

 

 

週が開けて、まだまだ混乱した頭と街でありながら、人々は仕事に向かって行った。
けれど、電車が完全に止まってしまった地域に住んでいる人は、長い間、出社できずにいた。

 

私たちは仕事をするしかなかった。それぐらいしか出来ることはなかった。

 

 

 

震災直後から一週間くらいだろうか、計画停電というものがあった。
今ではもう当たり前のように電気をつけているが、私の住んでいる地区も一度だけあった。
計画停電のある日は時間を見計らって帰った。電車もとまったからだ。

 

実家から駅まで原付で通勤していたが、ガソリンも無駄に使えない状況だった。
父は車通勤だったので、母は自分の車は極力使わないようにしていた。

 

原付で、駅から実家のある住宅街までは、大通りを経て、田んぼの脇の裏道を使っていた。
裏道は普段から民家もまばらで街灯も少ないが、裏道を抜けて住宅街に入れば、それなりに明るさを感じる。
しかし、その日は真っ暗だった。

 

計画停電が始まっていて、街灯はもちろんついていないし、家々は暗闇に沈んでいた。
月明かりと原付のライトだけを頼りに、私は家に帰った。
家では、母が前もって用意してくれたカレーを懐中電灯の明かりの中で食べた。

 

二階に上がって窓から外を見ると、自分たちの住宅街は真っ暗だが、田んぼの向こうの遠くの住宅街は明るいのが見えた。
その明るさと、原付で帰る時に見た真っ暗な姿が、私は今でも忘れられない。

 

 

そして、一週間ほど経って、予定通りに弟は帰ってきた。
やっと帰ってきた彼は地震も分からなかったといい、こちらの混乱からずいぶん遠いところにいた。

 

しかしその後、縁あって被災地近郊に就職し、今ではそこで家庭さえ持っているのだった。
なんて奴だ。あっさりと先をこされた。

 

避難している人たちの話をしながら、「いい所だよ」と、毎日坂をロードバイクで通勤している時の笑い話を、帰省するとしてくれたものだ。
母の実家で親戚に弟の就職先を話した時も、親戚のおばさんは心配しながらも「いい所だよね。行ったことがあるけれど、ここと似た空気が流れていて好き」と笑っていた。

 

 

 

そんなことを今、つらつらと思いだして、こうやって書くことが出来て、よかったと思う。