ランドセルからはみ出す竹のものさし
僭越ながら、これは私だろうか。と思いながら、一気に読んでしまった。
著者の暮らしのものさしが、ふわりふわりと、掌編で語られていく。
もの、からだ、ひと、こころ、仕事、生き方のこと。
箒で掃除をしたり、寄り道が好きだったり、朝はゆっくりと珈琲を入れたり、部屋に緑をかかさなかったり。
お米は鍋で炊いていたり、三日坊主だったり、スナフキンに憧れていたり、ピンクの洋服が着られなかったり。
そのどれもで、私がなりたい私がそこにいて、そして今の私もいる。
思えば、私が憧れている私は、いったい、いつ作り上げられたのだろう。
実家を出たいと思い始めた頃には、もうそんなことを考えていたと思う。
暮らしは、手を抜こうと思えばどこまでも手が抜けるものだ。
けれど、そうすることで心が楽になるかといえば、そうではないと思う。
自分が気持ちよく暮らしを営むことは、自分と向き合い、話し合い、折り合いをつけていくことかもしれない。
それこそ、自分のものさしを見つけ、そのものさしを頼りに一日一日を営んでいくしかないのだ。
例え、ハウスキーパーがいたとして暮らしが他人の手で保障されたとしても、暮らしは心を内包していて、その心は自分次第なのだから。
実家を出て一人で暮らそうと思った自分は、自分だけのものさしを世界から探し出したくなったのかもしれない。
ものさしは、いくつか見つかったけれど、まだまだ私は、もっと好きなものさしを見つけたい。
毎日、コラムを書くというものさしは、最初に聞いた時は出来るはずがないと尻込みしたくせに、少し経つと自分からやりたいと言ったのだから不思議だ。
そこに、私はものさしの気配を感じたのだろう。
何かを書くことは、昔から私になじみ深かった。
中川ちえ 「むだを省く 暮らしのものさし」
(2012、朝日新聞出版)